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渋江屋敷の全ぼう解明か 秋田藩8人の家老輩出 屈指の門閥

(雪国TODAY2018年9月号/全文1700文字/写真3枚)

度重なる焼失などで極めて資料の乏しい秋田藩・久保田城と重臣の生活実態の一端が、8人の家老を輩出した渋江家屋敷跡地の発掘調査で明らかになる可能性が出てきた。

 秋田県民会館の敷地は渋江の屋敷跡。現在、建て替えのために解体中で、更地になった直後の調査が当時の手掛かりを知る最後の機会になると関係者はみている。

発掘調査が進む県民会館敷地。渋江屋敷の全ぼう解明か      

  秋田県埋蔵文化財センターの磯村亨専門員によると、調査は東海林太郎の銅像があったポケットパーク200平方㍍をほぼ終え、敷地の市道沿いを掘り起こしている。渋江屋敷の全ぼうは不明。ただ、明治17年に作成した「陸軍所轄地秋田城全図」が手掛かりになるとみている。

 全図に示された渋江屋敷には4つの井戸がある。和洋高校との境界に2カ所、東海林太郎銅像の近くに1カ所。ジョイナス正面付近に1カ所。敷地内の井戸の数で屋敷内に居住していた家臣、奉公人の人数がわかる。

 井戸の数を確定させることは重要。久保田城内に関していえば井戸の数さえ定かではない。久保田城の度重なる焼失。1633年の本丸焼失で藩主は2年にわたって渋江屋敷を仮御殿にしている。

 渋江屋敷の4つの井戸で城内に居住していた人数を知る手掛かりになる可能性もある。

 秋田市立佐竹資料館の榎良昭学芸員は「渋江屋敷の4つの井戸は興味深い。屋敷に住む人たちだけでなく、城の火災に備え城内の佐竹の家族、家臣、奉公人の暮らしに必要な水量が井戸4つ分だった可能性もある。事実、渋江屋敷は本丸焼失の約50年後に焼失。それから約100年後の1778年に再び本丸が全焼。このときも渋江屋敷に3年にわたって仮住まいした。渋江は濁川の下屋敷に転居した。財政難だった秋田藩。井戸の数から窮乏ぶりの真相が見えてくるかもわからない。

 (残り900文字/写真2枚)       

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